2006年度 2学期、火曜3時間目 2単位

授業科目 学部「哲学史講義」大学院「西洋哲学史講義」

授業題目「ドイツ観念論における自己意識論と自由論の展開」

 

          第二回講義(2006年10月24日)

              §1 自由に関する立場の分類

1、両立論(compatibilism)人間の意思の自由と世界の出来事の決定論の両立可能性を

みとめ立場

2、非両立論(imcompatibilism)人間の意思の自由と、世界の出来事の決定論は、両立不可能であると考える立場、

 

1の両立論者が、その両方が成立していると主張するとは限らないので、つぎのように分かれるだろう。

1.1 両立可能であり、また現実にどちらも成立している。

1.2 両立可能であるが、人間の意志は自由であるが、世界は決定されていない。

1.3 両立可能であるが、人間の意志は自由でなく、決定論は成立している。

1.4 両立可能であるが、人間の意志は自由でなく、世界も決定されていない。

(おそらく、通常はこの1.1をcompatibilismと詠んでいるのではないかと思われる。)

 

2の非両立論者は、次のように分かれるだろう。

2.1 両立不可能であり、人間の意志は自由であり、世界は決定されていない(libertarian)

2.2 両立不可能であり、人間の意志は自由でなく、決定論は成立している(determinist)

2.3 両立不可能であり、人間の意志は自由でなく、世界も決定されてない。

 

(“Stanford Encyclopedia of Philosophy の記述によれば、出来事が決定されているか否かに関係なく、意志の自由を否定する立場を、強固な非両立論(hard incomptaibilism)というようだ。 Cf. "http://plato.stanford.edu/entries/compatibilism/#5

 

カントは、『純粋理性批判』(1781,87))では、人間の意志が自由であるかどうかは判らないが、しかし自由と決定論は両立可能であると考える。しかし、『実践理性批判』(1788)では自由を要請する。

 

 

 

§2 カントのcompatibilisim

 

1、カント『純粋理性批判』第三アンチノミー「超越論的理念の第三の自己矛盾」

 

Thesis.

Die Causalität nach Gesetzen der Natur ist nicht die einzige, aus welcher die Erscheinungen der Welt insgesammt abgeleitet werden können. Es ist noch eine Causalität durch Freiheit zu Erklärung derselben anzunehmen nothwendig.             

「自然法則に従う原因性は、世界の諸現象がすべて、そこから導出されうる唯一の因果性ではない。世界の現象を説明するために、自由による原因性を想定することが必然的である。」

 

証明

「およそ原因性には、自然法則に従う原因性だけしかない、と想定してみよう。すると、すると生起する一切のものは、それよりも前にある状態、つまりこの生起するものが規則に従って必然的に継起せねばならなぬ直前の状態を前提することになる。・・・もし一切のものが自然法則に従ってのみ、生起するとしたら、いつでも下位の始まり、すなわち比較的な始まりがあるだけで、最上位の始まり、すなわち、第一の始まりというものは決してありえない。すると準じに原因から原因へと遡る原因の側における系列の完全性はまったく存しないことになる。・・・

 そうすると、自然法則とは異なる別の原因性が想定されねばならない。かかる原因性は、何かあるものを生起せしめるけれども、しかし、この生起の原因はもはやそれよりも前にある原因によって、必然的自然法則にしたがって、規定されることがない。還元すれば、かかる原因性は原因の絶対的自発性であり、自然法則に従って進行する減少の系列を自ら始めるところのものである。したがって、それは超越論的自由であり、これがなければ自然の経過においてすら、現象の相続的継起の系列は、原因の側において決して完結することがないのである。」(岩波文庫、篠田正雄訳『純粋理性批判』岩波文庫、中、127-9、少し訳語を修正)

「私が(例えば)いま完全に自由であり、必然的に規定する自然原因の影響力を受けずに椅子から立ち上がるとすれば、この出来事をもって一つの新しい系列が始まるわけであり、従ってまたこの出来事によって無限に達する自然的結果が生じるのである。時間的に言えば、もちろんこの出来事はその前から続いていた系列の継続に過ぎない。しかし、椅子から立ち上がろうとする決意と椅子から立ち上がる行為とは、単なる自然的結果の単なる継続ではない、この出来事に関しては、規定する自然的原因はかかる決意と行為よりも前に既に終わっているからである。すると件の出来事は、なるほど時間的にではないが、しかし原因性に関しては、現象の系列の絶対的に第一の始まりであるといわねばならない。」(132f

 

Antithesis.

Es ist keine Freiheit, sondern alles in der Welt geschieht lediglich nach Gesetzen der Natur.

「自由は存在せず、世界の中のすべてのものは、自然法則に従ってのみ、生起する。」

証明

「超越論的な意味における自由なるものが存在すると仮定してみよう。自由は、世界の出来事を生起させる特殊な種類の原因性であって、ある状態とこの状態から生じる結果の系列との絶対的な始まりを設定する能力である。・・・自由というこの原因性は絶対的な始まりをもち、こうして生起するところの作用よりも前には、この作用を恒常不変な法則に従って規定するようなものは何もないということになる。・・・ゆえに超越論的自由なるものは因果性に反する。また作用原因の継時的な状態をこのように結合することは、経験の統一を不可能にするものである。それだからこのような結合は、いかなる経験においても、見出されない、したがってまた内容のない空疎な思惟物に過ぎないということになる。」

「我々は自然法則に変わって自由が法則によって規定されるなどと言うわけにはいかない、もし自由が法則によって規定されるならば、それはもはや自由ではなくて、それ自身自然に他ならないからである。」(中、127f)

 

 

2、第三アンチノミーの解決

カントは、第一、第二アンチノミーを数学的アンチノミー、第三、第四アンチノミーを力学的アンチノミーとし、前者はThesisAntithesisも偽であるが、後者は、両方とも真でありうると考えた(A531f=B559f)。

「自然必然性の普遍的法則と調和するところの自由による原因性の可能性」(B566)においてつぎのよう説明する。

 

「感官の対象に備わっていてしかもそれ自身は、現象でないところものを、私は可想的となづける。それだから感覚界においては現象と見なされねばならないものが、感性的直観の対象となりえないような能力を備え、この能力によって現象の原因となりうるならば、このような存在者の原因性は二つの面から考察せられうる、すなわち、この原因性は、――第一に、その作用が物自体の作用と見なされるならば、可想的原因性であり、――また第二に、その結果が感覚界の現象の結果と見なされるならば感性的原因性である。すると、我々はかかる主観の有する能力に関して、この能力の原因性の経験的概念と可想的概念を構成することが出来るだろう。」(B566、中、211)

 

ここで、可想的原因性と感性的原因性を区別する。前者は、自由の原因性であり、後者は、自然法則の原因性であるという。

 カントの両立論が説得力を持つためには、可想的原因性としての意志の自由の説明が説得的でなければならない。そこで次に意志の自由について検討しよう。